天智天皇への敬仰史
天智天皇祭祀と不改常典
大化の改新を推進し、新時代の確立に向けて画期的な新政治を展開して行かれた天智天皇は、奈良時代以降明治に至るまで、御歴代の天皇のなかでも特別な位置に置かれていました。
持統天皇の元年(687)、天武天皇の忌日に国忌の制度が始められました。この日は政務を行わず、諸寺で仏事を行う日とされ、続いて文武天皇の大宝2年(702)からはその祖父である天智天皇についても国忌を設けられました。天智天皇の国忌には勅願寺として設けられた志賀山中の山岳霊場・崇福寺をはじめ諸大寺で法要が毎年行われていました。
持統天皇の元年(687)、天武天皇の忌日に国忌の制度が始められました。この日は政務を行わず、諸寺で仏事を行う日とされ、続いて文武天皇の大宝2年(702)からはその祖父である天智天皇についても国忌を設けられました。天智天皇の国忌には勅願寺として設けられた志賀山中の山岳霊場・崇福寺をはじめ諸大寺で法要が毎年行われていました。
その後、平安時代に入ると十陵五墓という制度ができ、近い時代の天皇の御陵(十陵)と外戚の五墓に年末に奉幣を行うことになっており(荷前「のさき」といいます)、時代が下るとともに国忌や荷前の対象となる天皇は加除されていきましたが、天智天皇は後代まで残され、室町時代に至って国忌・荷前の制度が廃絶するまで、山科山陵への奉幣や諸寺での法要が続けられました。忌日の法要や年末の奉幣以外にも、即位に当ってや国家に特別なことがあれば天智天皇の御陵に奉告し加護を乞う習いとなっていました。地震の奉告や文永5年(1268)元寇の折などがあります。
奈良時代の元明天皇のご即位の宣命に「近江大津宮に天の下知ろしめしし天皇の天地とともに長く日月とともに遠く改(かわ)るまじき常の典(不改常典)」ということばが見えます。その後、聖武天皇・孝謙天皇のご即位の宣命にも謳われ、さらに平安時代以降多くの天皇の即位の宣命にも見えます。皇位継承にかかわる法と考えられていますが、天智天皇の定められたこの常典を永久に守っていかなければならないものと考えられており、後世に至るまで特別に重んじられてきたという事実があるのです。
平安王朝の祖・中興の主
平安時代に入ると光仁・桓武天皇以降、父系でも天智天皇系統の天皇が皇位に就かれるようになり、律令国家・平安王朝の祖として天智天皇と近江朝に対する敬仰が広く浸透していきました。
平安初期の学者、三善清行は、太祖・神武天皇が辛酉の年に始められた日本の国を、1320年後の辛酉の年(661)に中宗・天智天皇が再興(中興)し、その治世に現今の政治制度が作られて連綿と継承されているとして、天智天皇を讃えています。それ以来、歴史書では天智天皇を「中興の主」として仰ぐ史観が広まってきました。
大学寮で日本書紀の講釈を行った後の宴会の歌「日本紀竟宴(きょうえん)歌」として
平安初期の学者、三善清行は、太祖・神武天皇が辛酉の年に始められた日本の国を、1320年後の辛酉の年(661)に中宗・天智天皇が再興(中興)し、その治世に現今の政治制度が作られて連綿と継承されているとして、天智天皇を讃えています。それ以来、歴史書では天智天皇を「中興の主」として仰ぐ史観が広まってきました。
大学寮で日本書紀の講釈を行った後の宴会の歌「日本紀竟宴(きょうえん)歌」として
さざなみの寄するうみべに宮はじめ世々にたえぬか君がみのちは
(紀長谷雄 延喜6年 906)
すめらぎの近江の宮につくりおきしときのまにまに御代も絶えせず
(源高明 天慶6年 943)
の天智朝・近江朝を讃える歌が歌われたゆえんです。
まさしく、天智天皇の時代の近江令が天武天皇の飛鳥浄御原令となり、大宝・養老律令となって平安王朝の政治体制の基を形作っていたわけであり、その後・武家社会になっても律令は廃止されるわけではなく、明治初年に至るまで、生きていました。明治維新に至る1200年の基を作られた天皇と申し上げることができます。壬申の乱で近江朝廷と天武天皇は対峙したにもかかわらず、天武天皇は天智天皇の政治を否定することなく継承し、より発展させられたのです。
まさしく、天智天皇の時代の近江令が天武天皇の飛鳥浄御原令となり、大宝・養老律令となって平安王朝の政治体制の基を形作っていたわけであり、その後・武家社会になっても律令は廃止されるわけではなく、明治初年に至るまで、生きていました。明治維新に至る1200年の基を作られた天皇と申し上げることができます。壬申の乱で近江朝廷と天武天皇は対峙したにもかかわらず、天武天皇は天智天皇の政治を否定することなく継承し、より発展させられたのです。
和歌史上の天智天皇と近江朝
楽浪(さざなみ)の志賀の唐崎幸(さき)くあれど大宮人の船待ちかねつ
楽浪の志賀の大わだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも
いにしへの人に我あれや楽浪の古き京(みやこ)を見ればかなしき
楽浪の国つ御神のうらさびて荒れたる京見れば悲しも
楽浪の志賀の大わだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも
いにしへの人に我あれや楽浪の古き京(みやこ)を見ればかなしき
楽浪の国つ御神のうらさびて荒れたる京見れば悲しも
上二首は万葉集の代表的な歌人である柿本人麻呂の歌、下の二首は同じく高市黒人の歌。ともに近江大津宮が廃都となった後、荒廃した旧都にたたずんで往時を偲んだ歌です。単に旧都を回想するのみでなく、天智天皇とその時代を仰ぎ慕う気持ちが深く表われた万葉集の歌です。さらに平安時代以降、近江廃都は勅撰集の歌を始めとする多くの歌に、志賀の都として歌われています。歌枕を媒介とする歴史回想からも、天智天皇と近江朝を偲ぶ思いがいかに強かったかを知ることができます。
鎌倉時代初期、小倉百人一首の筆頭歌に伝説的ながら天智天皇の御製が置かれたのも、律令国家・平安王朝の祖としての基礎を築かれた天智天皇に対する深い崇敬心によるものであり、そのような歴史的な脈絡があります。さらには百人一首の末尾に、平安王朝の再興を目指して倒幕を図られた、後鳥羽院と順徳院が置かれていることの意味はまことに深長です。そして江戸時代に入ると、小倉百人一首はかるた遊びとして、また手習いの教本として、一般庶民にも親しまれるようになり、皇室ことに天智天皇を仰ぐ国民的な思慕を一層培うことになりました。
近江国の天智天皇伝説と信仰
そのような天智天皇に対する国家的な信仰のもとに、近江国での天智天皇信仰があるといえます。よく知られているように、日吉大社の西本宮は、天智天皇の時代に国家鎮護の意味で大和の大神神社から勧請された御社です。その際のご祭神の上陸地と伝える唐崎神社は、七瀬の祓えの一つとして頻繁に往復されましたが、平安京から唐崎への往来は、志賀越え道から崇福寺の前を経て近江廃都まぢかを通る道。同神社とともに七瀬の祓えの一つである佐久奈度神社は、右大臣中臣金を遣わして祓えをさせたことに始まるといわれています。
また大津宮の食膳に列なる湖魚を調達したのが地名の起源という膳所、天智・天武・持統三代の産湯の井戸(御井)の地といわれる三井寺、天智天皇の奥之島行幸の際に郁子(むべ)の実を賞味され、現在に至るまで郁子の実を宮中に献上するもとになった伝説、などなど。ほかにも特に滋賀県内には多くの天智朝ご創建になる神社、天智天皇にかかわる神社があり、多くの天智天皇伝説が残されています。さらには鹿児島県などに伝わる天智天皇潜幸伝説、東国各地(愛知・神奈川・千葉など)に伝わる弘文天皇伝説もその一環だと思えるわけです。