令和8年の年柄
昭和天皇は終戦の翌年の昭和二十一年元旦に 「新日本建設の詔書」を発布せられ戦後日本の再建を国民に呼びかけられた。 当時深刻な食糧難もあって国民の生活は誠に苦しい時代であった。 その年の夏、 吉田首相以下閣僚らに対して、戦後復興は天智天皇の白村江での敗戦後の復興に習って進める事を仰せられ、 近江神宮にご代拝なされた。それより数えて本年は八十年の年である。
今年の干支は丙午であるが六十年前の昭和四十一年は同じ干支であり、「建国記念の日」が制定され、日本の人口が一億人を超えた年でもあった。
さて、本年の十干は丙(ひのえ)。火の兄(え)の陽。炳(あきらか)に通じる。草木が成長して姿形が明らかになって繁茂している状態を表わす。陽気が十分に充足した万物隆盛の明るさ、強さである。
丙は古くは灾とも書いた。災の異体字でもある。家の中に火がある状態を示し、火が燃え上がって災いとなることを表わす。実際の火災ばかりでなく、人間関係でも災いのもとを火種とか火元とかいう。火性が強くなりすぎれば災いのもとになる。
丙の文字は一、冂、入の部分からできていて、陽気(一)が冂(おおい)の中に入ろうとしている様子を表わす。陽気の頂の時に既に覆いの中に入って隠れようとし、陰気が生じ始めることを表わしている。猛暑の盛りにそこはかとしのび寄る秋の気配を感じることがあるように、陽気の絶頂の中に陰気を内包しているのである。
次に十二支の午(うま)。午は正午、午前午後の午として現在も生きている。十二支で時刻を表わした名残である。午前十一時から午後一時までを午の刻という。南中前後の真昼である。季節では旧五月、夏至を含む月であり、太陽高度が最も高い時季。方角では南、五行の火気であり陽の極み。季節でも一日でも暑さの盛りはもう少し後になるが、夏至・南中を境にして太陽光は僅かづつ弱くなり、陰の気が少しづつ現われ始め、陰陽の気が交わりながら、暑さの盛りを経て秋から冬へと季節は進み、夕方から夜へと時間は進んでいく。年に配当されている十二支にも陰陽消長には季節や一日の動きとと同様の意味がある。
この僅かに陰の気が入り始めた状態を易卦では天風姤(てんぷうこう)といい、
今年の干支は丙午であるが六十年前の昭和四十一年は同じ干支であり、「建国記念の日」が制定され、日本の人口が一億人を超えた年でもあった。
さて、本年の十干は丙(ひのえ)。火の兄(え)の陽。炳(あきらか)に通じる。草木が成長して姿形が明らかになって繁茂している状態を表わす。陽気が十分に充足した万物隆盛の明るさ、強さである。
丙は古くは灾とも書いた。災の異体字でもある。家の中に火がある状態を示し、火が燃え上がって災いとなることを表わす。実際の火災ばかりでなく、人間関係でも災いのもとを火種とか火元とかいう。火性が強くなりすぎれば災いのもとになる。
丙の文字は一、冂、入の部分からできていて、陽気(一)が冂(おおい)の中に入ろうとしている様子を表わす。陽気の頂の時に既に覆いの中に入って隠れようとし、陰気が生じ始めることを表わしている。猛暑の盛りにそこはかとしのび寄る秋の気配を感じることがあるように、陽気の絶頂の中に陰気を内包しているのである。
次に十二支の午(うま)。午は正午、午前午後の午として現在も生きている。十二支で時刻を表わした名残である。午前十一時から午後一時までを午の刻という。南中前後の真昼である。季節では旧五月、夏至を含む月であり、太陽高度が最も高い時季。方角では南、五行の火気であり陽の極み。季節でも一日でも暑さの盛りはもう少し後になるが、夏至・南中を境にして太陽光は僅かづつ弱くなり、陰の気が少しづつ現われ始め、陰陽の気が交わりながら、暑さの盛りを経て秋から冬へと季節は進み、夕方から夜へと時間は進んでいく。年に配当されている十二支にも陰陽消長には季節や一日の動きとと同様の意味がある。
この僅かに陰の気が入り始めた状態を易卦では天風姤(てんぷうこう)といい、
と表わす。すべて陽の気であった前卦の次は下から陰の気が兆して五陽一陰。丙も午も同じような状態を表わしている。極限に達して陽気の頂点から陰気の交錯が始まり、成長が鈍化しつつ熟成に向う時である。陰の気は衰退に向う面もあるが、強力すぎる陽気の過剰を抑えつつ内部充実を図り、熟成させる力である。
一つの文明の成長期には著しく経済が成長し人口も増えるとともに、それに伴うひずみや問題点が各所に生じるが、それを解決しつつ、安定した社会を形成していく。戦後の高度成長期が一段落して安定成長に向う時期に典型的に表われているが、歴史上幾度となく繰り返されてきたことである。
近代以前には馬は人間の生活に不可欠の有用で大切な動物であった。長距離を疾駆する乗り物であり、荷車を引く運搬力であり、一般庶民にとっては何よりも農耕のための力強い働き手であった。農家では屋敷の同じ屋根の下に馬小屋があり、家族と同様の生活をした。そして人馬一体で農業生産が行われ、馬の働きあっての米作りであった。
農村には今も伝わる土地もあるが、競べ馬は農閑期の農耕馬の運動であり、人馬ともに楽しむレクリエーションであり、祭礼の奉納行事であった。
また馬頭観音は山道などで事故死した馬を供養するために祀られたものが多いが、馬頭観音そのものが災害なきように人馬を守り農業生産を守っていると信仰されてきた。
丙・午ともに火性であることから丙午の迷信が生れ、数々の不幸を生んだ。実害の多かった迷信である。どちらも火性だからその年は火災が多いというなら、壬子の年はどちらも水性だから水害が多いことになるではないかと江戸時代から多くの批判を浴びていた。総人口が一億人を超えた昭和四十一年の丙午は、前後の年より出生数が大幅に少なかった特異な年であったが、近年の少子化はそれよりも遥かに減少している。
火気の過剰を抑える力を丙・午自体の中に内包しているが、今年の九星は一白水星であり、水気である。迷信の一種ではあるが、水剋火という五行の原理もある。火気の行き過ぎによる災厄を水気が防ぐのである。水で火を消すという単純な道理である。
太陽の恵み(火気)と水の恵み(水気)に感謝し、過剰な力を相互作用で抑えつつ、陰の極みである水気と陽の極みである火気が相まって、陰陽調和した社会に進展していく年であることを切に願いたい次第である。
一つの文明の成長期には著しく経済が成長し人口も増えるとともに、それに伴うひずみや問題点が各所に生じるが、それを解決しつつ、安定した社会を形成していく。戦後の高度成長期が一段落して安定成長に向う時期に典型的に表われているが、歴史上幾度となく繰り返されてきたことである。
近代以前には馬は人間の生活に不可欠の有用で大切な動物であった。長距離を疾駆する乗り物であり、荷車を引く運搬力であり、一般庶民にとっては何よりも農耕のための力強い働き手であった。農家では屋敷の同じ屋根の下に馬小屋があり、家族と同様の生活をした。そして人馬一体で農業生産が行われ、馬の働きあっての米作りであった。
農村には今も伝わる土地もあるが、競べ馬は農閑期の農耕馬の運動であり、人馬ともに楽しむレクリエーションであり、祭礼の奉納行事であった。
また馬頭観音は山道などで事故死した馬を供養するために祀られたものが多いが、馬頭観音そのものが災害なきように人馬を守り農業生産を守っていると信仰されてきた。
丙・午ともに火性であることから丙午の迷信が生れ、数々の不幸を生んだ。実害の多かった迷信である。どちらも火性だからその年は火災が多いというなら、壬子の年はどちらも水性だから水害が多いことになるではないかと江戸時代から多くの批判を浴びていた。総人口が一億人を超えた昭和四十一年の丙午は、前後の年より出生数が大幅に少なかった特異な年であったが、近年の少子化はそれよりも遥かに減少している。
火気の過剰を抑える力を丙・午自体の中に内包しているが、今年の九星は一白水星であり、水気である。迷信の一種ではあるが、水剋火という五行の原理もある。火気の行き過ぎによる災厄を水気が防ぐのである。水で火を消すという単純な道理である。
太陽の恵み(火気)と水の恵み(水気)に感謝し、過剰な力を相互作用で抑えつつ、陰の極みである水気と陽の極みである火気が相まって、陰陽調和した社会に進展していく年であることを切に願いたい次第である。
(令和8年版 近江神宮『開運暦』より)



