天智天皇・大津京年譜
天智天皇・大津宮年譜
年号
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干支 | 西暦 | 月日 | 事項(特記なき事項は『日本書紀』による) |
大化元 | 乙巳 | 645 | 6/12 6/14 6/19 12/9 |
中大兄皇子(のちの天智天皇)が中臣鎌足(のちの藤原鎌足)らと共に、蘇我入鹿を誅し、蝦夷を自死せしめ蘇我氏の専横を砕く。 孝徳天皇が即位され、中大兄皇子は皇太子として執政。左大臣に阿部内麻呂、右大臣に蘇我倉山田石川麻呂、内臣に中臣鎌足を任ず。 大化の元号を建てる。 難波長柄豊碕宮に遷都。 |
大化2 | 丙午 | 646 | 1/1
3 8/14
9 |
大化改新の詔を宣す。公地公民の制・行政組織と交通制度・戸籍、徴税、班田収授の法・田調などの税制の四箇条を制定。
東国国司・国造を考課、違反したものを正す。官司の直営田(屯田)を廃止。中大兄皇子、私有の部民と屯倉を天皇に返上す。薄葬・奴婢・婚姻・祓除の制を定める。 品部を廃止。 高向玄理を新羅に派遣し、人質を取り、任那の調を廃止。 |
大化3 | 丁未 | 647 | この年、七色十三階の冠位を制定。
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大化5 | 己酉 | 649 | 1/2 | 冠位十九階を制定。八省百官を設置。
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白雉元 | 庚戌 | 650 | 2/15 | 穴戸(長門)より献上された白雉により改元。 |
白雉5 | 甲寅 | 654 | 10/10 12 |
紫冠を中臣鎌足に授与。
孝徳天皇、崩御。 高向玄理、唐で客死。 |
斉明元 | 乙卯 | 655 | 1/3 | 皇極天皇、飛鳥板蓋宮に重祚。 この冬、飛鳥板蓋宮焼失。飛鳥川原宮に移る。 |
斉明6 | 庚申 | 660 | 5 9 10 12 |
中大兄皇子、初めて漏刻を造る。 百済の使、新羅・唐の攻撃により百済が滅亡し、鬼室福信らが抵抗中であることを伝える。 百済の鬼室福信、唐人捕虜百人余を献じ、救援と人質の王子余豊璋の返還を求む。天皇これに応ずる。 天皇、百済救援のため難波宮に移る。 |
斉明7 | 辛酉 | 661 |
1/6
3/25 5/9 7/24 8 9 11 |
天皇、中大兄皇子、大海人皇子、難波より西征の船出。14日 御船、伊予の熟田津の石湯行宮に碇泊。 御船、娜大津(博多)に至る。磐瀬行宮を長津宮と改称。 天皇、朝倉橘広庭宮に移る。 斉明天皇、朝倉宮に崩御。中大兄皇子称制。長津宮に移り、西征を指揮される。 阿曇比羅夫・阿倍比羅夫らを百済救援の将軍に任ず。 百済王子余豊璋に兵五千を添えて、百済に送る。 天皇の殯を飛鳥の川原で行う。 |
天智元 | 壬戌 | 662 | 1 3 5 |
鬼室福信に矢・糸・綿・稲種などを送る。 唐・新羅、高句麗を討つ。高句麗、日本に救援を求める。日本はこれに応ず。唐・新羅、高句麗の侵略を断念す。 阿曇比羅夫らに船師百七十艘を率い、余豊璋を百済に送らせ、王位を継承させる。 |
天智2 | 癸亥 | 663 | 3 5 8/27 9 |
上毛野稚子・阿倍比羅夫らに兵二万七千人を与えて新羅を討伐させる。 百済王余豊璋、鬼室福信を疑い殺害。 日本・百済軍、唐・新羅と白村江(はくすきのえ)で戦い大敗。豊璋は高句麗へ逃亡す。 百済の州柔城降伏、百済滅亡。日本軍、百済の遺民とともに帰国。 この年、中臣鎌足、山階(興福)寺を創建。 |
天智3 | 甲子 | 664 | 2/9 5/17 |
冠位二十六階を制定。氏上・民部・家部を定む(甲子の宣)。 唐の百済鎮将劉仁願、郭務棕ら、筑紫へ来て表函と献物を進上。日本側は入京を許さず。 この年、対馬・壱岐・筑紫などに防人・烽(狼煙)を置き、筑紫に水城を造営。 |
天智4 | 乙丑 | 665 | 2/1 8 9/23 12 |
百済の男女四百人を近江国神崎郡に移す。 百済の遺臣らに筑紫国の大野・椽(基肄)と長門に城を築く。 唐使劉徳高ら、筑紫に至って表函を献上。のち入京を許可。 唐使帰国。 |
天智5 | 丙寅 | 666 | この冬、都(飛鳥岡本宮)の鼠が近江に向かって移動するという。 百済の男女二千人余を東国に移す。 倭漢知由(やまとのあやのちゆう)、指南車(磁石という)を献ず。 |
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天智6 | 丁卯 | 667 | 3/19 11 |
都を近江大津宮に遷す。 大和に高安城、讃岐に屋嶋城、対馬に金田城を築く。 |
天智7
| 戊辰
| 668
| 1/3
1/17 2/23 3/3 4/6 5/5 7 9/12 | 天智天皇、近江大津宮で御即位。
勅願により崇福寺を創立。(『扶桑略記』) 倭姫王(古人大兄皇子女)立后。大海人皇子、皇太弟となる。 大和国三輪に坐す大己貴神を比叡の山口に祭る。(『日吉社禰宜口伝抄』) 百済、調を進む。 天皇、蒲生野に遊猟。 近江国に官牧を設置し馬を飼育、また武を講ず。越国、燃土(アスファルト)と燃水(石油)を献上。 大津宮の浜台で魚を飼育。 新羅使来朝、国交回復。 |
天智8
| 己巳
| 669
| 10/15
12 | 天皇、鎌足の家に病を問う。天皇、大海人皇子を使とし、中臣鎌足に大織冠と大臣の位を授け、藤原姓を与える。翌日、鎌足没す。
大津宮の大蔵に火災。 |
天智9
| 庚午
| 670
| 2
3/9 | 庚午年籍を作成。盗賊、浮浪を禁ず。
この月、蒲生郡「匱さ野(ひつさの さ=しんにゅうに乍)」(日野付近)に行幸して新宮の候補地を視察される。 山の御井の傍に諸神を勧請して幣帛を頒つ。中臣金、祝詞を奏す。 この年、水碓を造りて冶鉄す。 |
天智10
| 辛未
| 671
| 1/2
1/6 1/9 3/3 4/25 5/5 6 9 10/17 10/19 11/23 11/29 12/3 12/5 | 大友皇子を太政大臣に、蘇我赤兄を左大臣に、中臣金を右大臣にする。
冠位・法度の事(一説に近江令)を施行。 高麗使を遣して調を進上。百済の鎮将劉仁願、使を送り上表。学職頭鬼室集斯ら、百済の遺臣に位を授与。唐使李守真ら、表を進上。 黄書本実(きふみのほんじつ)、水はかり(水準器という)を献ず。 漏刻(水時計)を新設し、鐘鼓を打って時を知らせる。 大津宮西小殿に田舞を奏す。 栗隈王を筑紫率に任命。 天皇不豫(一説に8月) 天皇は後事をすべて大海人皇子に託す。大海人皇子はこれを固辞、出家。 大海人皇子、吉野での修行を望み、許される。吉野に入る。 5人の重臣が大友皇子に繍仏像の前で宣誓。 大津宮にて火災。大蔵省第三倉より出火。 天智天皇崩御。 大友皇子、朝政を執る。(即位とも)(『扶桑略記』) |
弘文元
| 壬申
| 672
| 5
6/24 7 7/23 8/25 9 | 近江朝廷が天智天皇山陵造営のため人夫を徴発。山陵造営と称して兵を徴集させていると朴井雄君が大海人皇子に報告。
大海人皇子、吉野で挙兵して東国へ向う。翌日、高市皇子、続いて大津皇子、近江より脱出して合流。 大海人皇子の軍、美濃より近江・大和へ侵攻。近江朝廷の軍、瀬田で敗北。 大友皇子、山前で自死される。 中臣金は斬罪、巨勢比等・蘇我赤兄らを流罪に処される。 大海人皇子、伊勢、伊賀を経て、飛鳥の岡本宮に入る。 冬、飛鳥浄御原宮が完成、岡本宮から移る。 |
朱鳥元
| 丙戌
| 686
| この年、大友皇子の子、大友与多麿(与多王)が父の追福のため園城寺を創建するという。(『扶桑略記』)
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文武3
| 己亥
| 699
| 10
| 天智天皇山科山陵と斉明天皇越智山陵造営のため恩赦。山科陵を修理造営。(『続日本紀』)
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天平元
| 己巳
| 729
| 8/5
| 近江国紫郷山寺(志賀山寺 崇福寺)を官寺とする。(『続日本紀』)
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天平12
| 庚辰
| 740
| 12/13
| 6日より聖武天皇が近江国に行幸、この日、崇福寺に参詣。(『続日本紀』)
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延暦5
| 丙寅
| 786
| 1/21
| 桓武天皇が滋賀郡内に梵釈寺を建立。(『続日本紀』)
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延暦13
| 甲戌
| 794
| 11/8
| 桓武天皇、詔して旧都大津宮の名称を重んじ古津の名を大津に復す。(『日本紀略』)
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弘仁6
| 乙未
| 815
| 4/22
| 嵯峨天皇が唐崎行幸の途中、崇福寺・梵釈寺に立ち寄り、梵釈寺では永忠が茶を煎じて献ずる。(『日本後紀』)
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