弘文天皇は、天智天皇の皇子。御名を大友(おおとも)皇子、またの御名を伊賀(いが)皇子と申し上げます。わが国最初の漢詩集である『懐風藻』120篇中の筆頭に御作2首が収められ、日本漢詩の祖と讃えられます。
天智天皇は、その10年10月、御不例の御時、皇太弟・大海人皇子を召され後事を託されましたが、大海人皇子は病気を理由にこれを辞し、出家して吉野に入られたので、天智天皇は大友皇子を皇太子とされました。まもなく天智天皇は大津宮にて崩御され、大友皇子は御即位になったと考えられていますが、翌年、壬申の乱の悲劇が起り、戦い利あらず、7月23日、聖寿25歳をもって崩御あそばされました。
御陵は長等山前(ながらのやまさき)陵(大津市御陵町)と申し上げます。
弘文天皇崩御の地については日本書紀の記述にもはっきり書かれておらず、大津市内のほか大阪府の山崎にも比定されています。また東国に落ちのびて子孫を残されたなどの伝説もあり、各地に伝承地や関係神社があります。
『日本書紀』には弘文天皇を御歴代の中に数えていませんでしたが、水戸徳川家編纂の『大日本史』は即位説を取り「天皇大友」として本紀に載せ、明治3年、諡を奉って弘文天皇と申し上げ、第39代天皇として正式に御歴代として登載申し上げることになりました。
弘文天皇崩御の年の7月23日は太陽暦で8月24日にあたります。この日、近江神宮において弘文天皇祭を斎行、弘文天皇をお祀りする鳥居川御霊神社より御神札が捧持され、御ゆかりの園城寺執事の御奉仕により追悼表白が奏されます。
弘文天皇御製 『侍 宴』 えんにじす
皇明光日月 帝徳載天地 こうめい じつげつひかり ていとく てんちをのす
三才竝泰昌 萬国表臣義 さんさいならびにたいしょう ばんこくしんぎをあらはす